2013年03月29日

ことばを教えること

同じ国語科のMせんせは、国語塾も経営している。
「ことのはのさやぎ」という塾だよりを発行していて、
その中に興味深い話が載っていたので少し紹介。

語彙力を増やしたい、という神戸新聞文化センターの掛りからの要望で(カルチャー・センターでの講座を)始めたのだが、実質、「国語塾」でのオリジナル教材による実習国語教室になってしまった。1回目は、お試しの授業ということだったので、11人ほど集まったが、「語彙力だけ付けたいので」とほとんど辞退され、4人の女性だけが残った。(略)
 それにしても、なぜ「語彙力」だけ身につけたいのだろう。そして、それはクロスワードのような言葉クイズをやることで、力になるのだろうか。さらに、単に言葉だけを増やすのは、とても危険なことだと思うし、「本音」を見失って生きてしまう恐れがあると思うのだが。自身の内面には触れず、世の中との接点も問題にせず、「言葉」を着飾って、見かけ美しくも賢くもあればいいのだろうか。だが、実際、それでいいのだ。豊かな語彙力だけで十分なのだ。ちょうどお金さえあれば、なにも問題ないように。(略)そもそも、だれも言葉を深く考えなおしての「国語」教育なんて思ってないのだ。「漢字検定」や「語彙力検定」だけで、「国語力」が計れると思っているのだ。ほんとうの意味での「国語」(「豊かな日本語」「生き生きとした国語表現」)教育なんて考えていないのだ。


ただ意味も考えず、遣い方も知らず、「語彙力」だけを詰め込むことに意味などない。
「ことば」を教えることは、文化を伝えることだからだ。
どんな場面でどんな言葉を選ぶか。
どんな美意識から発せられた言葉なのか。
沖縄の人が、津軽に降る七つの雪を実感として解することができないのは
それらの雪が生活に密着していないからに他ならない。

とはいえ、授業では「語彙力」を増やすことを課し、
重要語単語のテキストをもとに語句テストを行い、
新聞コラムの筆写も課題として出している。
もちろん、一夜漬けですぐ忘れる生徒もいるだろうか、
これらの課題はやり方次第では
コミュニケーションに必要な武器を増やすことができる。
本を読んだり、映画やドラマを見るのと同じことだ。
自分の気持ちを相手に伝える術、相手の気持ちを理解する術。
そのために必要な「ことば」こそが武器だとしたら
使いこなすために知らなければいけない。
知らなければ(持っていなければ)使えないのだから。

コミュニケーションツールとしての国語を教えるために
すべきこと、できることを考えよう。
新学期を前に、春の夜につらつらと。





〜本日のささこと〜
「3.11は“災害の日”でも“黙祷の日”でもない。現地とそれ以外の土地とのいまだある温度差を感じる日」
特別ドラマ「ラジオ」より



※「ささこと」とは、刺さった言葉の略。小説、マンガ、ドラマ、映画、さらには友人知人との会話に至るまで……さまざまな状況で見聞きした言葉の中で、ワタシの心が奮えたものの記録です。


posted by しがない物書き椿屋 at 17:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日々まにまに
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