池を前に
初夏の空気を深く吸い込んだ。
息を潜めて、その瞬間を待つ。
身が引き締まる静寂。
どこか懐かしい空気。
水面を覆う眩しい緑。
ポンッ
ポンッ
ポンッポンッ
小さな音で弾けるように
蓮の花が開いていく。
心おだやかに
何も考えないひととき。
昨日、部下がしでかした失敗も
結婚を心配する母親の声も
友人のいざこざの仲介も
雑多なことは全て部屋に置いてきた。
花が開くたび
思い浮かんでは消える
恋人の笑顔だけが
いまの自分に必要なもの。
「……竜?」
不意に、懐かしい呼び名が聞こえた。
立っていたのは、学生時代の友人だ。
「……彩子」
一度だけキスをした。
そして、何かがズレた。
「久しぶり、だね」
「ああ、久しぶり」
「元気だった?」
「ああ。彩子も?」
「うん」
ぎこちないけれど、決して不快ではない。
戸惑いは、束の間の沈黙を引き寄せる。
短い言葉は、宙ぶらりんになる。
「みんなに会ってる?」
「いや、最近は忙しくて」
「そっか。私も近頃は由佳くらいかな」
「由佳さんは、相変わらず?」
「そう、相変わらず。パワフル」
思わず顔を見合わせて、微かに笑いあう。
たゆたっていたふたりの距離が近づいた。
急速に時間が巻き戻っていく。
「竜も蓮が好きとは知らなかったな」
「彩子こそ」
「私たち、知らないことだらけだよね」
知る前に、離れてしまった。
近づくこともなく過去に流されていった相手と
こうして再会することは、驚きと躊躇いを連れてくる。
それは決して、不快ではない。
自分が歩んできた道と、選んできたものが
間違ってなかったと知ることができるから。
差し込む朝陽から逃げつつ、まだまどろんでいるはずの
恋人を思い出しながら、竜一は清楚な花を眺めていた。
©手描染屋眞水