2007年06月18日

『たゆたふ欠片』

 ようやく空が白み始めたころ
 池を前に
 初夏の空気を深く吸い込んだ。

 息を潜めて、その瞬間を待つ。

 身が引き締まる静寂。
 どこか懐かしい空気。
 水面を覆う眩しい緑。

 ポンッ

   ポンッ


    ポンッポンッ


 小さな音で弾けるように
 蓮の花が開いていく。

 心おだやかに
 何も考えないひととき。

 昨日、部下がしでかした失敗も
 結婚を心配する母親の声も
 友人のいざこざの仲介も
 雑多なことは全て部屋に置いてきた。

 花が開くたび
 思い浮かんでは消える
 恋人の笑顔だけが
 いまの自分に必要なもの。

 「……竜?」
 不意に、懐かしい呼び名が聞こえた。
 立っていたのは、学生時代の友人だ。

 「……彩子」
 一度だけキスをした。
 そして、何かがズレた。

 「久しぶり、だね」
 「ああ、久しぶり」
 「元気だった?」
 「ああ。彩子も?」
 「うん」
 ぎこちないけれど、決して不快ではない。

 戸惑いは、束の間の沈黙を引き寄せる。
 短い言葉は、宙ぶらりんになる。

 「みんなに会ってる?」
 「いや、最近は忙しくて」
 「そっか。私も近頃は由佳くらいかな」
 「由佳さんは、相変わらず?」
 「そう、相変わらず。パワフル」
 思わず顔を見合わせて、微かに笑いあう。

 たゆたっていたふたりの距離が近づいた。
 急速に時間が巻き戻っていく。

 「竜も蓮が好きとは知らなかったな」
 「彩子こそ」
 「私たち、知らないことだらけだよね」
 知る前に、離れてしまった。
 近づくこともなく過去に流されていった相手と
 こうして再会することは、驚きと躊躇いを連れてくる。
 それは決して、不快ではない。
 自分が歩んできた道と、選んできたものが
 間違ってなかったと知ることができるから。

 差し込む朝陽から逃げつつ、まだまどろんでいるはずの
 恋人を思い出しながら、竜一は清楚な花を眺めていた。



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 ©手描染屋眞水
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2007年06月13日

『最強の殺し文句』

 図書館からの帰り道、
 あぜに咲く禍々しいほどの
 激しい赤を見つけて立ち止まった。

 一面の絨毯のような彼岸花。

 「相思華ですね」
 声をかけられたのは、そのとき。

 「相思華」とは、「曼珠沙華」と同じく
 彼岸花の異名のひとつ。
 韓国での呼び名だという。

 「韓国の方ですか?」
 「いいえ。ただ、美しい名前だから」
 なんのてらいもなく
 男の人が「美しい」と言うのを
 実花は初めて聞いた。

 それが、きっかけ。

 たったひとこと。
 「美しい名前だから」と。

 それからも実花は、竜一の紡ぎだす言葉に恋をした。

 竜一は「ごめんなさい」と「ありがとう」を
 安売りはしないけれど、惜しまない人だった。

 三十を越えた大の男が
 しゅんとした様子で「ごめんなさい」と謝るのは
 たまらなくいとおしいキモチにさせた。

 喧嘩中でも、
 何かを手渡せば「ありがとう」と言う。
 ほんの少し不本意そうな、憮然とした様子で。
 その言葉に、実花はつい怒りを収めてしまうのだ。

 「相思華みたいだ」
 いつだったかベッドの中で竜一が囁いた。

 「わたしたちが?」
 「相思華は、花は葉を思い、葉は花を思うって意味なんだよ」
 「どっちが花?」
 思いのほかロマンチストな一面も、竜一の魅力だと実花は思う。

 他愛もない話をしながら、短い相槌を打って、
 髪をすく竜一の指にうっとりする。
 首筋に顔を埋めて、ときどき鎖骨に口づける。
 至近距離で目が合えば、ふわりと笑う。
 どこからか救急車のサイレンが聞こえた。

 ああ、好きだな。
 タメ息と一緒に吐き出さなければ
 身体中が『すき』というキモチで埋もれてしまいそう。

 そう感じる瞬間が、実花にはある。
 竜一にもあればいいな、と思う。

 大袈裟でもなんでもなく、
 『すき』の言葉がぎっしり詰まっている気がするのだ。

 だから、破裂してしまわないように
 タメ息と一緒に吐き出す。

 「好き」

 安売りはしないけれど、惜しまずに。
 最強の殺し文句をあなたにあげる。


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 ©手描染屋眞水
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2007年06月10日

『紫陽花に伝うしずく』

 糸のような細い雨が
 すうっと土に消えていく。
 さっきよりも少し
 土の色が濃くなった。

 外灯の光を反射したしずくが
 ぽんっと花びらに跳ねる。
 幾枚もの葉を
 飛び越えて伝った。

 こんなにも雨が似合う花は他にない。

 紫陽花が咲き誇る寺院の境内で、
 駅へと急ぐ途中の公園で、
 姉が丹精こめて世話する庭で、
 紫陽花を見ては思い出す。
 花の素晴らしさを教えてくれた
 フラワーショップの店員。

 初めて訪れたのはいつだったか。
 たぶん、母の日の前日。
 カーネーションを嫌う母に
 代わりの花を選ぶ自分は
 さぞかし困惑顔だったのだろう。

 「カーネーションは嫌いなの?」
 声をかけられて、身構えながらもほっとした。

 次に訪れたのは、友人の誕生日の朝。
 「女の子のプレゼントに困ったら花にすればいいのよ」
 姉の言葉に素直に従って。

 三度目が、ホワイトデー。
 もらったチョコのお返しに、小さなアレンジをいくつか。
 「たとえ明らかに義理チョコでも、お返しは義務なの」
 これまた姉の言葉に縛られて。

 「随分とモテるのね」
 「これは…鞠姉ちゃん、いや、姉が……」
 「へぇ、義理のお返しは義務かあ。ステキなお姉さんだわ」
 「ステキ、かなぁ?」
 「ステキよ。羨ましいわ、そんなお姉さんがいて」
 「傍若無人ですよ」
 「弟にとって、姉なんてどこでもそんなものじゃない?」
 くすりと笑った彼女は、紫陽花が好きだと言った。

 「君は?」
 「え…、どうかな……」
 「次は自分の好きな花を買いにきてね」
 「あ、はい」

 胸元の名札には「実花」の二文字。
 ああ、なんて花屋に似合う名前だろう。
 花が好きな人に悪い人はいない。
 なんて、
 どこかで使い古されたような表現でしか
 彼女をイメージできないことに苦笑い。

 甘い香りが漂う店内で
 生まれたのは
 紫陽花みたいに淡い色のやさしいキモチ。
 まだ恋にもならない小さなつぼみ。

 どうか、伝うしずくのように
 儚く消えてしまいませんように。
 次に会うときには
 淡い色の紫陽花を選ぼう。
 いまから梅雨が待ち遠しい。

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 ©手描染屋眞水
posted by しがない物書き椿屋 at 14:40 | 京都 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片
2007年06月07日

『シロツメクサの王冠を』

  サスケの散歩をしていたら
  川べりの土手に
  シロツメクサが咲いていました。


 毎朝、歯を磨きながら
 洗面所の壁に留めてある葉書を
 鞠子は何度も読み返す。

 四つ葉のクローバーを探し
 シロツメクサで王冠や指輪をつくり
 スミレの花の蜜を吸ったことを
 懐かしく思い出す。

 思い出したように届く葉書。
 丁寧に書かれた豪快な印象の文字。
 彼が毎回どんな顔をして
 葉書なんてしたためているのかを
 想像するだけで頬がゆるむ。

  近所の八百屋で
  枇杷を買いました。
  今年のハツモノです。


 メールもある。
 ケータイも持っている。
 なんならFAXだって。

 たわいない日常の欠片を
 書き溜めただけの手紙。

 だからこそ、いとしくて、
 何度も読み返してしまう。
 短い数行の内容なんて
 すぐに暗記してしまうのに。

 文字を追っかけていくことで
 彼とのキョリが少しだけ
 縮まるような気がして。

  昨日見た夢で
  君が笑っていました。


 「会いたい」の一言でも
 書いてくれればいいのに。
 そしたらいますぐにでも
 会いに行けるのに。

 電話して話すほどのことじゃなくて。
 メールで送るほどのことでもなくて。
 ましてや、FAXも使わない機能でしかない。
 だけど、
 葉書だから
 たったひとことを伝えることができる。

  サスケに友だちができました。
  チビちゃんといいます。
  友情がいつか
  恋情になるかもしれません。


 友情が恋情に
 変わる瞬間には
 いったい何があるのだろう。

 初めて送る手紙は
 シロツメクサの王冠と一緒に。
 なんならわたしが届けたっていい。

 小さな公園に咲く
 シロツメクサの群を眺めながら
 鞠子は大きく伸びをした。

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 ©手描染屋眞水
posted by しがない物書き椿屋 at 22:55 | 京都 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片
2007年06月04日

『七夕の夜に中庭で』

 これといって理由もなく
 淋しさに足首を絡め囚われることがある。
 音もなく気配もなく足元に忍び寄ってきて。

 さして親しくもない知人から結婚式に招待され、
 十年来の友人の赤ちゃんを抱き上げ、
 幸せそうに並んで歩く恋人たちとすれ違い、
 クリスマスやバレンタインで賑わうデパートに出向くときに。
 正体不明の煙のようなものが
 足元にまとわりつく。

 自分にいくらか余裕があるときは
 それでも
 その謎の煙を蹴散らし、踏みつけ
 進むことができるのだけれど。

 ときには、ぐぐぐっと
 思わぬ力で足止めを食らってしまう。

 恋人がいないことが、悲しいのではない。
 結婚していないことに、負い目があるわけでもない。
 強いて言えば、
 結婚したいと思う人がいないことが問題なのかもしれないけれど。

 独りが、恐い。
 なんてこともない。

 なら、この煙はどこからやってくるのか。
 なぜ、この煙はときどきやってくるのか。

 学生時代にひとつ、社会人になってからひとつ。
 大きな恋をした。
 淡さがふんだんに溶け込んだ心持ちで、多少なりとも将来をリアルに意識し、
 自分のすべてがいったんバラバラに壊されて、それからまた組み立てられるような、
 情熱や、切実や、痛みを甘んじて受け止める覚悟を持って、
 向き合い、寄り添い、並んで歩いた。
 けれど、心のどこかで、不完全さに気を取られ、
 いくつもの要因が重なり合い、交わり合い、ダメになってしまった。
 いまならもっと、うまく関係を維持できただろうか。

 前の恋を手放してから、
 何かに突き動かされるような衝撃で
 誰かをほしいと想うことがない。
 出会いはどれも、清水のように流れていく。
 どこに留まることなく、
 平穏な毎日の中で。

 約束の場所には先に着いた。
 薄曇りの空を見上げる。
 織姫と彦星のデートは今年もお預けだろうか。
 『今夜の降水確率は75%です』
 にこやかな笑顔で告げた天気予報のお姉さんを思い出す。
 そう。
 雨が降っても、傘をさして行けばいい。
 誰に遠慮することもなく。

 目の前の広場には、
 大きくて青々とした笹が設置され、
 色とりどりの短冊が揺れる。

 照れ笑いしながら願いごとを書いた日、
 自分に代わって一番高い枝にくくりつけてくれた背中に
 抱きつきそうになった記憶が、潮が満ちるように喜多見を支配しはじめたとき。
 「ごめん! お待たせ」
 「遅い!」
 「弟と短冊つくってたら、電車一本乗り過ごして」
 息せき切って、鞠子が駆け寄ってきた。

 短冊に書けるような願いごとなんて思いつかない。
 けれど、せっせと色紙を切っている彼女の弟を思い浮かべるだけで、
 さっきまでの記憶が若干、薄れていく気がした。


posted by しがない物書き椿屋 at 19:55 | 京都 ☁ | Comment(3) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片
2007年05月31日

『サボテンの報告』

 「電気だとコンロで海苔があぶれないの」
 料理好きな妻の言うことは
 いつも唐突で、もっともだ。
 加納はそう思っている。

 下の息子が5才になるのをきっかけに
 中古だが家を買うことにした。
 同居する母親が
 向日葵を植える庭を欲しがったことも後押しとして。

 いくつかの物件を見ている中で
 いま流行の電気調理器具を薦められ、
 妻がすかさず答えた一言は
 妙に加納の中に居座った。

 「おにぎりやお寿司に巻く海苔は
 やっぱり直火であぶって
 香りを出したいの。
 だから電気コンロはダメ。
 安全装置がついてるものも
 お鍋を上げると火が消えるから困るし。
 こういうの開発する人って
 料理しないのかな?」

 安全や利便性を求めて
 かえって
 不便になることは
 案外、多いのかもしれない。

 「海苔あぶる用にカセットコンロを買えば?」
 久しぶりに会った高校の同級生のひとり、
 喜多見が穴子のにぎりを食べながら言う。
 「海苔をあぶるためだけにコンロを出すのが面倒らしい」
 自分も提案した内容は
 とっくに却下済みだ。

 「へぇ、面白いね」
 ガリを箸でつまんで感心声を出す。
 「海苔をあぶる手間は惜しまないのに、
 カセットコンロのセットが無駄とは」
 目の前で鰆をあぶる職人に向かって笑いかける。

 「まあ、どんな人間の中にも
 相容れない性質が同居してるものだけどね」
 喜多見のこうした物言いが、
 ひどく自分を安心させることを加納は知っている。

 「だから、面白い」
 手酌で熱燗を注ぐ。
 「ところで、チビたちは元気?」
 「元気有り余って困ってるよ」
 片時もじっとしていない
 ふたりの息子たちを思い出す。

 「それも、面白い」
 空いた加納の盃に酒を注ぐ。
 「今日、電話で『また来てね』って言われたけどなぁ」
 ここ数日、忙しくて寝顔しか見ていない。

 「それで? 今日の報告はなんだった?」
 「サボテンに花が咲いたって」
 「へぇ、かわいいね」

 今朝はまだ開いてなかった小さな蕾が
 可憐に咲いているのを想像する。
 それを見ながらうれしそうな息子と妻も。

 真っ暗な部屋へ帰る喜多見の
 孤独と自由と強さも一緒に。


posted by しがない物書き椿屋 at 16:39 | 京都 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片
2007年05月29日

『向日葵がくれたもの』

 誠人の夏休み最期の仕事は
 向日葵の種を取ることだった。

 兄の隼人が朝顔、
 誠人が向日葵。
 父親が決めた当番だ。

 太陽に向かって
 花を開くことが不思議で、
 花びらが茶色くなっていくのを
 少し悲しい気持ちで眺めていたのは
 夏休みが終わる淋しさと
 老いていくことへの恐れだったかもしれない。

 誠人が小学校を卒業するころ、
 向日葵が大好きだった祖母が死んだ。

 盛大なお葬式で並ぶ
 花輪が向日葵のように大きくて
 祖母が喜んでいるように思えた。

 中学生になっても
 高校生になっても
 夏休み最期の仕事は続く。

 大学生になって家を出てからも
 毎年、向日葵が枯れるころには
 家に帰った。
 そして、社会人になって初めての夏。

 向日葵は一際大きく
 太陽に向かって花開き、
 ご丁寧にも父親から

 写メールが届いた。

 『今年も大きな向日葵が咲きました。』

 誠人はそのときはじめて
 祖母を想って泣いた。
 小さな画面いっぱいに咲く
 向日葵の黄色が眩しくて。

 皺の多い手の平や
 白髪混じりの艶のない髪、
 「しょうがないねぇ」の口癖、
 西日の差す部屋で針仕事をする背中、
 鼻緒がゆるくなった草履、
 ちょっと物足りない薄味の味噌汁。

 とたんにたくさんの映像が
 フルカラーで流れ込んでくる。

 向日葵の黄色に負けないくらい
 鮮やかな色で。

 毎年、毎年
 飽きもせず種を取るのは
 もういない祖母のため。

 ここ数年、
 ろくに墓参りもしてないのに。

 夏休みが盆休みになった今年は、
 わざわざ有給を取って帰省するつもりだ。
 しわくちゃの祖母の笑顔を思い出しながら
 返信メールを打つ。

 『過去最高の種が取れることを期待してます。』


【お詫び】
posted by しがない物書き椿屋 at 17:22 | 京都 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片
2007年05月28日

『仲直りのレモン』

 13日、声を聞いてない。
 ふと、思い出した現実に
 隼人は溜め息をついた。

 13日間という時間の長さと、
 いつ解けるか分からない彼女の怒りと、
 それにどう対応すればいいか
 迷っている自分の不甲斐なさを思って。

 発端はなんだったのか。
 これと言って説明できるような
 原因ではなかった。
 引き金を引いたのは
 どちらだったのか。
 こういうケンカは珍しくないけれど、
 いつも、なんとなく
 なし崩しに仲直りをしていた気がする。

 13日。

 顔も合わさず、声も聞かず、メールもない。
 電話は出ない、メールに返信はない。
 ここのところバーでの仕事が忙しくて、
 会いに行く余裕もなかった。
 そうして、最初の一週間が過ぎると
 今度はどうにも気まずくて、
 会いに行くことも、電話をかけることも
 できなくなってしまっていた。

 「情けないなぁ」
 誠人の呆れ顔が浮かぶ。
 「兄貴は、ほんと見栄っ張りというか、不器用というか」
 そんな言葉に、

 途方に暮れながら。
 見栄っ張りと
 不器用について考察していると、
 ポケットに入っているケータイが震えた。

 慌てて出れば
 「レモン、買ってきて」の一言。

 それで電話は終わり。
 プープープー
 無機質な音を吐き出す機械を見ながら
 笑ってしまいそうになるのを堪えた。

 そうだ、思い出した。
 いつも仲直りは彼女から。
 お決まりの言い方で一言。

 「レモン、買ってきて」

 それは「ごめんね」の言葉。
 そしてボクは走り出す。
 まだレモンが手に入る店を目指して。

 信号待ちもじれったくて
 その場で足踏みしながら
 レモンを買いに走る。

 ナイフを入れた瞬間の
 爽やかな酸味の香りが
 部屋中に広がり
 彼女を包み込むのを想像して、
 少しドキドキしながら走った。



posted by しがない物書き椿屋 at 14:44 | 京都 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片
2007年05月21日

『ミモザがゆれるとき』

 電話を切ったとたん、無性にミモザが飲みたくなった。

 由佳があの淡いオレンジ色のカクテルを欲するのは、
 隼人に会いたくなってしまったときだと決まっている。
 本当はお酒なんて好きじゃない。
 けれど、ミモザだけは別だ。

 初めてミモザを飲んだのは、
 大学の新歓コンパの帰り。
 隼人ともそこで出会った。

 酔っ払った由佳を見かねて、
 輪の中から連れ出してくれたのが
 午前2時を少し回ったころ。

 「家、どこ?」と聞かれたものの、
 どうしてだかもう少しだけ外にいたい気分で、
 初対面こその気安さもあって、わがままを言った。
 というよりは、駄々をこねた。
 と、言った方が正しいかもしれない。

 あのときのことを思い出すたび、
 由佳はくすりと笑ってしまう。

 そして、ちゃんと家に帰っていれば…
 ほんの一瞬考える。
 もしあのときをやり直せたとしても、
 決して家には帰らないことを知っていながら。

 「しょうがないな。じゃあ、ついてきて」
 少し歩いたら、地下へと続く細い階段。
 「ここ、どこ?」
 「バイト先」
 へぇ、と呟いて店内を見回していると、

 「ま、座れば?」とスツールを引かれる。
 「ジュースにする?」
 なんとなく、ジュースを頼むのはもったいない気がした。

 「お勧めは?」
 「酒がいいの? だったら、軽めにつくるよ」
 隼人はカウンターへと入ると、
 静かな佇まいのシャンパングラスを選んだ。
 注がれた液体の中で、
 しゅわしゅわしゅわっ
 揺らめく泡がまるで宝石みたいで、
 ぼんやり見続けていると、
 隼人が薄く笑った。

 「なに?」
 「いや、ガラスケースの人形を見てるちっちゃい子みたいだなって」
 「失礼ね」

 カウンター越しに交わす言葉は、
 それだけで特別な感じがした。

 いまふたりの間にある空気も特別なにおいがした。

 たとえそれがつかの間の錯覚だとしても、
 差し出されたカクテルを前にひとつの予感。

 きっと自分はこの人から目が離せなくなる――。

 ふいに息苦しくなったら。
 秘めごとは
 あの淡いオレンジ色に
 ほんの少し
 溶かしてしまえばいい。
 ミモザを飲むとき、由佳はいつもそう思っている。



posted by しがない物書き椿屋 at 02:30 | 京都 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片
2007年05月18日

『なわとびと沈丁花』

 匂いというのは厄介なもので、
 ときとして映像や音よりも
 リアルに過去を思い出させる。
 と、彩子は思っている。

 お粥のとろりとした甘さに父親の背中を、
 取り込んだ洗濯物の日向の匂いに恋人との別れを、
 雨の降る直前の湿気た空気に母のいなくなった朝を……そして、
 ふいに鼻先をかすめる沈丁花の香りに淡い初恋を。

 何の前触れもなく記憶を封じ込めた心の襞にするりと滑り込み、
 それらは彩子を翻弄する。
 いつだって、どこでだって。

 「なわとび?」
 受話器を持ちながら窓を開けた瞬間、
 沈丁花の甘い香りが部屋に入ってきた。

 「そう、買ったの」
 「なんで、なわとび?」
 相変わらずワケわかんないね、と由佳が笑う。

 「公園の前を通ったら、近所の小学生たちがなわとびをしてたの。
 二重跳びの練習。見てたら、わたしもまだ跳べるかな?と思って」
 「二重跳びが?」
 「そう、何回できるか確かめてみたくて」

 さっきの沈丁花の香りはどこからやってきたのだろう。
 マンション下の広場だろうか。
 今朝、会社へ向かうときは気づかなかったけれど。
 風向きのせいでもっと遠くから流れてきたのかもしれない。
 その香りに誘われて、
 数年ぶりにふと公園へと足を踏み入れたんだった
 と、思い当たったとき。

 「それで?」
 由佳が呆れたような、
 それでいて楽しんでいるような様子で訊く。
 「それだけよ」

 「そうじゃなくて。何回できたの、二重跳び」
 「できなかったわ」
 「一回も?」
 「一回も」

 「情けないね」と由佳が笑う。
 「情けないよ」と彩子も笑った。
 「最高記録二十八回だったんだけどなぁ」

 いつの間にできなくなってしまったのか。
 もちろん思い出そうとしても
 心当たりなんてちっともないけれど。
 一体いつまで自分は
 二十八回の記録を維持できていたのかと不思議に思う。

 あんなに簡単に跳べたのに、いまはもうできない。
 なわとびだけじゃなく、
 いろんなことがそうかもしれない。

 突然、「あ、いま沈丁花の香りがした」と、
 由佳の声が弾んだ。
 ただそれだけで、つらつらと考えこんでいたことが
 どうでもいいことになる。

 「こっちもするよ」と答えた自分の声も
 心なしか弾んでいる気がした。


posted by しがない物書き椿屋 at 23:21 | 京都 ☁ | Comment(3) | TrackBack(0) | たゆたふ欠片