2009年前期日程より
(前略)大事なのは「音読する」ということである。今の日本語は音声面を無視しすぎていて、そのために文章に生気が乏しいのだと私は思っている。
しかし、言葉のリズムに関してさらに大事なのは、木下順二「古典を訳す」が提出した疑問である。――『平家物語』第四「橋合戦」の一節、
大音声をあげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は眼にも見給え。三井寺にはその隠れなし。堂衆の中に筒井の浄妙明秀という一人当千の兵ぞや。われと思わん人々は寄り合えや、見参せん」。
というのを、近ごろはやりの「現代語訳」をして、
大声をあげて名前を告げていうには、「ふだんは評判ででも聞いていたろう、今は眼でよく見なさい。三井寺では私を知らぬ者はいない。寺僧の中の、筒井の浄妙明秀という、一人で千人をも相手にするという強い男だぞ。われこそと思うような人は集まってこい、対面しよう」。
と訳したら、これは訳したことになるかという問題である。なるほどわれわれ現代人には「現代語訳」の方が分かりやすいかもしれない。しかし原文がもっている朗朗とした響きとリズム、そしてその響きとリズムによって、文が力強く読者にせまってくる緊迫感、そういうものはこの「現代語訳」では完全に消えている。そういうものを消してしまった文章で『平家物語』を読んで、そこに何が書かれているか分かったとしても、それで『平家物語』を読んだ、あるいは理解したことになるかということである。むろん、なるわけはない。(中略)分かりやすいだけの文には言葉の生命がない。
これは、柳沼重剛氏の「書き言葉について」からの出題。
同文は『語学者の散歩道』(岩波現代文庫、2008年6月17日出版)に収録されている。
筆者は1926年東京生まれ、京都大学文学部卒業後、東京大学大学院に進学・修了。
筑波大学名誉教授となり、2008年に死去。
生徒が問題を解く間、解説の確認もそっちのけで熟読してしまう。
こういう問題に現役本番で当たらなくてよかった。
余計なことを考えすぎて、解答欄を埋めるどころじゃなくなったろうから。